平成3年1月に起こった不思議な事件
私は山梨県富士吉田市に在住の羽田昌記(ハダマサキ)と申します。60歳です。
今から33年前の1991(平成3)年1月に私を中心に事件が起こったと思われます。
当時、私が26才の時です。
事件名はわかりませんが、私がうそつきで女癖が悪いと思われ、暴力団等に
狙われた、という事件です。
その当時、私は記憶喪失におちいっていたようで、事件のことを気づかずにいたのですが、今は記憶も戻ったようです。事件に気づき本当に驚きました。
事件はマスコミ等でおおきく報道されたようです。
私の記憶違いと思われがちですが、何度も繰り返して思い出すと私の記憶は正しいと確信しております。記憶が混乱しているとは思えません。
知人に聞いても「知らない」と言って教えてもらえません。
私としては、皆で事件を封印しているとしか思えません。
私に本当のことが言えない何か理由があるのでしょう・・・。
事件に気づいた以上、当事者である私が真実を知りたいのは当然のことだと思います。
私はどんな事実を知っても大丈夫です。
——————私が知りたいこと—————————————
○事件名
○新聞、雑誌のコピー
○テレビ放映されたビデオ
○犠牲者がでてるかもしれません。それは誰か?
○私の記憶の悪さに気がついた、雀荘にいたおじさん達が誰か?
○その他、お世話になった人達
○その他、迷惑をかけた人達
○事件後の変革(どのような事が起こったか?)
○どうして、本当の事が言えないのか?
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皆さんの貴重な意見を募集いたします。是非、ご協力下さい。
どんな些細な事でもかまいませんので、投稿お待ちしております。
意見をくださった方に迷惑はかけません。
私自身、この事が頭から離れず毎日悩んでいます。仕事も手につきません。
どうか、私の悩みに協力してください。助けてください。
私はどんな事実を知っても動揺しません。
H20年春、このことについて訴訟を起こしました。訴訟相手は伏せておきますが、被告は知らないの一点張り、原告の私には証拠がありませんでした。
裁判は私の負けです。
私に言わせれば、裁判官も事件のことは知っていたはず・・・、なのに、負けです。そのことを追求しても裁判官の言い分は「裁判官によって判決が変わるのはおかしい」という言い分でした。
日本の司法というところは、真実を問うところではなく、原告と被告の言い分を聞いて判断するところだと思いました。
原告が真実を言っても、裁判官が真実を知っていても、判決は反対のものになるのです。
こんなことって アリ ですか?こんな裁判所なんて何のあてにもなりません。
くやしいです。
くやしくって夜も寝れません。
H22年春、事件のことを皆が封印・隠蔽してるのは「○○の力」だ、という情報を入手いたしました。さっそく問い合わせしてみると相変わらず「お茶を濁す」というのかあいまいな返事です。さらに「この問題はうちの管轄ではなく、何々の方です」とあっちこっちにたらい回しにされました。面倒なことは対応せず、よそにまわすといった相変わらずの対応で話になりません。
「○○の力」という勝手な判断で封印・隠蔽されてるということは、これって人権侵害なのではないのでしょうか?
また、憲法13条・19条違反ではないのでしょうか?
私としては事件の内容などは、もう、どうでもよいです。
私に皆で内緒事にしているのが、どうしても気にいりません。
○○には「政治」という言葉が入ります。
事件に気づいて14年になります。
いつまで、この苦しい日々は続くのでしょうか?
H24年1月 事件は実際あったと確信してます。今思えば事件前と事件後では世間の私への対応がまったく違ったことに気付きます。苦しかったことばかりです。そう考えると私はすごい人生経験をしたことになります。この経験を生かしプラス思考でやり直していく決意です。
事件に気付いて本当に良かったと思っています。
H24年4月 事件の事実・情報の開示を求めて、衆議院議長・山梨県・富士吉田市に陳情書を提出しました。
どのように審議されるのでしょうか?結論を期待します。
H24年7月 提出した陳情書がお役人によって排除されました。陳情書は請願法によって守られているのですが、こんな法律、何の役にもなりません。お役人なんてものは国民の意見なんて聞く耳も持ちません。
同じようなことに、デモがあります。いくら国民が反抗デモを行っても関係なし、です。
また、署名もいくら署名を集めても、ただ、形式上受け取るだけで後はお構いなしです。
H24年12月 事件に気付いて14年。事件の真実が知りたくて、夜中に仕事し昼間に時間をつくり、考えられるありとあらゆる機関に相談してきましたが、私の希望には至りませんでした。
とりあえず、ここで14年間の活動を休止することにしました。
今の私の力では無理だと判断したのです。
いつだったか忘れましたが、何回も地元の富士吉田警察署にも行きました。私は情報公開法に基づいて調書・資料・捜査報告書の開示を求めました。対応は「残ってない」の一言。裁判所にあるかもしれないと言うので、裁判所に向かうと「ない。警察署にあるかも」とやはりたらい回しにされました。
警察を管轄している公安委員会に出向いても働いているのは警察の人間。話になりません。
もし、私に頭脳と若さがあれば、司法試験を受けて行動を起こしたかったです。アメリカで弟の無罪を立証するため姉が弁護士になって裁判で勝った例をテレビで見たことがあります。弁護士の特権みたいなものがあるようです。
いつの日か希望がかなう時がくると信じています。
H26年7月 日々いろいろな細かい記憶がもどってきます。いろいろ思い出せています。
記憶の悪い現象は高校時にはでていたようです。
ユーミンの3曲が気になります。
H26年7月25日 とある記憶がよみがえりました。犠牲者と思われる二人が分かりました。近日中に家族に訪問し、お詫びしてきたいと思います。
H26年8月 まさか、の記憶が戻りました。まさか、この記憶が消えていたとは・・・。
○私の中学時代の2級年下の(旧姓)S・Sさん
(私の一番大事だった人。お詫びしたい)
○私の高校時代の同級生の(旧姓)W・Kさん
(多分、事件当時、お世話になった人。お礼を言いたい)
現在の居場所が分りません。連絡を取りたいです。このブログを見たら連絡頂けたら幸いです。
記憶が飛ぶとは、つくづく恐ろしいものだと感じました・・・。
H26年12月
事件の開示を求めて、再び富士吉田警察署に今度は上申書を持って行きましたが、受け取ってもらえませんでした。
H27年2月
事件に気づいて17年。事件の内容は90%以上気づいたと思っています。また、事件後の変革にもほとんど気がついています。あとは確信だけです。私が憤りを感じていたのは、皆に内緒にされているということです。事件の概要がほぼ分ったことで気持ちは落ち着きました。
私の記憶の悪いという現象は記憶がまったく消えるのではなく、記憶が時には飛んだり時には戻ったりという現象だったのだと思います。
この1年の間に自分で気がついている、お世話になった人にはお礼を、迷惑をかけた人にはお詫びをしてきました。まだ気がついていない人に挨拶をしたいのが私の希望です。
このタイミングで、世間の皆様へ。
平成3年1月、世間をお騒がせしたことを心よりお詫び申し上げます。
H27年4月
事件の開示を求めて今度は山梨県警察本部長に保有個人情報開示請求書を提出しましたが、不開示でした。理由は保存期間5年で既に破棄されてるとのことです。
H27年5月
世間の皆様には分からないかもしれませんが、「すべてのいろいろな事・面で想像を絶する苦労をしてきました。今でもその苦労は続いています。」
H27年6月
高校時代の全校の皆様、また各先生方、ありがとうございました。
H27年7月
自分一人で行動してきて、ほぼ事件の概要、事件後の変革に気がついた訳ですが、今の私の単純な気持ちを表すと、
「若気の至り」という言葉もありますし、
「三つ子の魂百まで」という言葉もあるし・・・。
H27年10月
再度、富士吉田警察署に赴き事件の再調査を依頼しましたが、殺人未遂は当時の時効は15年だったようです。この事件は時効という説明を受けました。
H27年10月
事件が封印されているのは、政治とマスコミによると思っています。よって、事件の開示を求めて総務省・山梨県・富士吉田市に行政不服申立書を提出しました。
H27年10月
私の現在の記憶力は良いと思います。学生時代のこと、若い時のことなどを鮮明に思い出すことができます。
H27年12月
犠牲者となった二人の為に、一生懸命頑張る所存です。それが二人への恩返しだと思います。今までの私は一歩引き、遠慮してきた人生ですが、これからは「人間万事塞翁が馬」の心得で生きていきます。
H27年12月
事件に気がついてから、自分探しの旅に17年かかったということです。
この17年間、誰一人として、どのあらゆる機関も私に協力してくれる人は一人もいなかったということです。
記憶をひとつひとつ戻しながら、気が付いてきたということです。
平成3年、今から24年前の事件です。若い人は事情が把握できないと思いますので、近くの中高年の人に聞いてみてください。
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H28年2月
私の記憶をたどると、どうやら私の高校時代のラグビーのことが問題になっているのかな?と感じました。
当時の状況を説明しますと、私の高校時代のラグビー部の監督は本当に素晴らしい名監督でした。山梨県の富士河口湖高校という学校です。山梨県には日川高校という当時は全国大会でベスト4くらいまで残る強豪校があったのです。この日川高校に山梨県大会の決勝で毎年どうしても勝てない状況だったのです。
監督の基本的な考えは3年生でチームをつくる考えです。いわゆる下級生のほうが上手でも3年生をレギュラーにする監督だったのです。
高校当時、保健室で保健の先生とこの話でいろいろな討論になりました。
私が言ったのは「ラグビーというのは勝ち負けの予想ができる。だから勝てる確率があるのなら、下級生でも上手なほうを出すべきだ。負ける予想なら3年生を出すべきだ」と言ったのです。
私の年は、絶対に負ける予想だったのです。ところが勝てたかもしれないという結果に終わったのです。
どうやら、平成3年の事件当時、このことが問題になっているのかな?と感じます。ブログでは詳しく説明できないのですが、このときの記憶は今は鮮明に思い出せます。
今から8年前(H20年)、息子の少年野球の父兄みんなの前でこの話になった時に、私が言ったのは
「富士河口湖高校は当時は新設校で総合選抜の進学校。みんな、たまたまこの高校で、たまたまラグビーをしている人間の集まり。だから3年生を出すので良い。例えば、ラグビーの上手な子を集めているような高校は下級生でも上手な子を出すべきだ」
と言いました。
3年を出すべきか、下級生でも上手な子を出すか、両方合っているということになり、最後の最後に私が言ったのは「監督は3年を出す考えの人だから、監督に従う。それで良い」という結論で終わりました。
高校の時の保健室・体育教官室での会話が今では鮮明に思い出すことができます。
ブログでは、このくらいの簡潔にしか説明できないのが残念です
また、私の進路のことで各先生方に心配させてしまい、結果、最後の最後は「俺のミスで、負けて悔いが残った。このままラグビーを辞めたくない。だから、どうしても早稲田でラグビーをしたい」と涙ながらに監督に言ったことも思い出しました。
世間の皆さまの前で、詳しく説明するのを希望します。
H28年6月
ラグビーの話をもう少し書きます。
事件後、いろいろな人にラグビーについて聞かれました。聞かれた内容は
「バックラインを浅くするってどういうこと?」
「ハーフ団って?」
「12番と13番の違いは?」
などについて、いろいろな人に特に女の人に聞かれました。
当時、私達のチームのバックラインは日本一浅いと言われました。
それで、問題になっているのは、ハーフ団なのですが、監督に「スタンドオフをしろ」と言われたのですが、私が条件をだしたのです。私がだした条件は、当時スタンドオフをしていた「Mがハーフをするのならスタンドオフをします。Mがハーフをしないのならしません」と監督に言ったのです。
どうやら、この辺のことが問題になっていることに気づきました。
詳しく説明することを希望します。
余談ですが、ユーミンの「ノーサイド」を聞くと今でも涙が出てきます。
H28年10月
さらに、ラグビーの話を書きます。
山梨県大会の決勝戦、対日川戦の内容です。レフリーの人選・日川高校のプレイ内容などが問題になったことにも気づきました。
その後の、ラグビー界の変革に感謝いたします。
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H28年10月
すべてにおいて、正しいと思われる変革に感謝いたします。ありがとうございます。
結果、無惨なこともありました。
A result might be horrible.
心からお悔やみ申し上げます。時期をみて献花してきたいと思います。
I regret it heartily. I watch time and want to offer flowers.
又、
政策も時代に合わなければ、上手くいくものも上手くいかないのでしょう。結果、世界恐慌に陥ったことが残念で仕方ありません。
If the policy does not match in the times, the thing going well will not go well. I am sorry that I fell into a result, the world financial crisis, and there is no way.
H29年2月
ラグビーの監督のことについて一言です。監督は「人生の教育者として、本当に素晴らしい100点満点の人」でした。
H29年3月
もしかしたら、犠牲者は3人でているのかもしれません・・・!?3人目が誰なのかも、ほぼ推測できるのですが・・・!?
H29年6月
以前にも書きましたが、私の頭の記憶の現象についてです。
私の記憶の悪さの現象は、頭を回転させた時は、次の日にはその時の記憶がまったく全部消えてしまいます。しかし、数年後その時の記憶を全部すべて思い出すことができます。
この現象が今でも続いています。
それを、自分で自覚・確認できている状態です。
H30年8月
私に内緒にしているこれらのことは、日本国憲法第三章の「基本的人権の保障」の憲法違反と思われます。
当てはまるのは、19条・21条1項・33条・37条・38条
人権侵害の憲法違反で訴訟を起こすことも可能だと思います。
本来なら記憶が戻るように周りの人達が協力してくれるのではないのでしょうか?
H30年11月
私がこれだけ事件のことに気がついているのに、世の中の人が今だに封印しているのは、もしかして、私が復讐するからと思っているのでしょうか?
私は復讐なんて絶対しません。穏便に済ませるのが第一の希望です。
是非、事件の真相の公開を希望します。
人権侵害の訴訟を起こそうとしているのですが、訴訟相手(被告)がよく分かっていません。おおよそは分かっているのですが確定的ではありません。ここで、全国の皆さんにご協力をお願いいたします。訴訟相手を教えてください。ご協力くださった方に迷惑は掛けません。匿名でも、名を伏せることでも何でも対応いたします。損害賠償請求など一切いたしません。白黒全部はっきりさせて、後はすべて水に流す、が希望です。
私は嘘なんて一切ついていません。女癖だって悪いなんて思っていません。どこからが女遊びなのでしょうか?
メニューのお問い合わせよりお気軽にメールください。
宜しくご協力お願い致します。
H31年3月
私の人生で大きな分岐点が2度ありました。
〇一つは、高校3年の進路で監督が早稲田に推薦してくれなかったこと。(監督のことをとやかく言うつもりはありません。尊敬しています。)
〇もう一つは、私が結婚する時、いわゆるこの事件が起きた時。しかし、私本人には黙っていたほうが良いという間違った判断。(この時の正しい判断は「東京行って好きな仕事をしろ」です。)
この大きな私の人生の分岐点。二つとも私が判断、決めたことではないのです。普通の人間だったら腐ります。実際、私も事実に気がついた時、本当に腐りました。いろいろな行動を起こしたのですが、反応が悪いのです。「何だこれ?こんなんでやってられるかー!ふざけんなー!」という気持ちでした。「疲れた。本当に疲れた」という気持ちです。
令和元年5月
今では、高校の時の体育教官室での会話がほとんど思い出せます。おそらく事件当時、体育のS先生・M先生が公の場でいろいろ喋ったのだと思います。両先生が言ったことは全部本当の話です。
令和4年3月 「羽田事件」と呼ばれていたのでしょうか?
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33年前の話です。事件は私だけに封印されています。若い人は事情が把握できないと思いますので、近くの中高年の人に聞いてみてください。
事件後の変革は、
○自民党55年体制の崩壊・細川総理の誕生
○新法律の施行「暴力団対策法」「風適法」など
○松任谷由実さんの「happy birthday to you ビーナスの誕生」
○弘兼謙史さんのマンガ「加冶隆介の議」
○柳沢きみおさんのマンガ「匿名係長 只野仁」
○史村翔さん原作のマンガ「サンクチュアリ」
〇しげの秀一さんのマンガ「頭文字D(イニシャルD)」
○伊丹十三さんの映画「ミンボーの女」
○ラグビー界の変革
など、まだ他に多々影響があったことに自身気がついております。